経典のことば(2)

 

金持ちであるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。
大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。「わたしの求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼だけだ。早くそれを作れ。」と
愚かな者は、努め励むことをしらないで、ただ良い結果だけを求める。しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。
人は親しむべき友と、親しむべきではない友とを、見分けなければならない。親しむべきでない友とは、貪りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。親しむべき友とは、本当に助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。
 ふまじめにならないように注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。
 自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心掛けなければならない。よい人は、その正しい行いが故に、世間において、太陽のように輝く。
執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。だから、執着を離れた心に、ものはかえって生きてくる。
悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。悲しみも喜びも越え、善も悪も超え、はじめてとらわれがなくなる。
ある人が蜜を煮ているところへ親しい友が来たので、蜜をごちそうしようと思い、火にかけたまま扇であおぎ冷やそうとした。これと同じく、煩悩の火を消さないで、清涼のさとりの蜜を得ようとしても、ついに得られるはずはない。
宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。
執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよくみることができない。執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。だから、執着を離れた心に、ものはかえって生きてくる。
悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。悲しみも喜びも越え、善も悪も越え、はじめてとらわれがなくなる。
人々は欲の火の燃えるままに、名声を求める。それはちょうど香が薫りつつ自らを焼いて消えゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。
名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど、子供が刃に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。
樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。
人の身の上に迫る生と老と病と死と愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。
それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。
鉄の錆(さび)が鉄からでて鉄をむしばむように、悪は人から出て人をむしばむ。
経があっても読まなければ経の垢(あか)、家があっても破れてつくろわないのは家の垢、身があっても怠るのは身の垢である。
行いの正しくないのは人の垢、もの惜しみは施しの垢、悪はこの世と後の世の垢である。
しかし、これらの垢よりも激しい垢は無明の垢である。この垢を落とさなければ、人は清らかになることはできない。
貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋(いか)りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚(おろ)かさは、その無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。
悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。
このように、善人と悪人とは違っている。愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。一方、賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。
ある蛇の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。尾が言うには、
「頭よ、おまえはいつも前にあるが、それは正しいことではない。たまには、私を前にするとよい。
 頭が言うには、
「わたしがいつも前にあるのはきまった慣わしである。おまえを前にすることはできない。」と
互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。
 ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。不平を並べてその順序を乱し、その為に、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。

一心(いっしん)に意(こころ)を制し、身を端(ただし)くし、行(おこない)を正しくして独(ひと)り諸善(しょぜん)を作(な)し衆悪(しゅうあく)を為(な)さざれば身(み)(ひと)り度脱(どだつ)してその福徳(ふくとく)を得(え)ん。
                         (無量寿経)

妄語(いつわり)の言説(げんせつ)は一切(いっさい)衆生(しゅじょう)を悩ます、彼(かれ)(つね)に黒暗(こくあん)の如(ごと)し、命(いのち)あれども死せるに同じ。                       (正法念處経)
衆生(しゅじょう)(もと)より佛性(ぶっしょう)有り、他より得(う)べきにあらず、譬(たと)へば人ありて自(みずか)らの衣(ころも)のなかに如意珠(たま)を持ちながら覚知(さと)らざるが如し、又(また)(くら)に寶(たから)を蔵(ぞう)しながら之(これ)を知らずして馳走(は)せて食(しょく)を求むるが如(ごと)し。   首楞厳経(しゅりょうごんきょう)
小悪(しょうあく)を軽じて以(も)って殃(わざわい)なしと為(な)すと莫(なか)れ、水滴(すいてき)(び)なりと雖(いえど)も漸(ようやく)く大器(たいき)に盈(み)つ。
                         (涅槃経)
心性(こころ)は本(もと)(きよ)し、諸(もろもろの)(とが)を垢(あか)と為(な)す、智慧(ちえ)の水を以(も)って心垢(しんく)を洗除(せんじょ)せよ。     (文殊師利問経)
瞋恚(しんい)は諸の善法(ぜんほう)を失うの本(もと)、諸の悪道(あくどう)に堕(お)つるの因(いん)、法楽(ほうらく)の怨家(えんか)、善心(ぜんしん)の大賊(たいぞく)なり。             (智度論)
愚者(ぐしゃ)は放逸(ほういつ)を楽(たの)しみ、常(つね)に諸(もろもろ)の苦悩(くのう)を受(う)く、若(も)し放逸(ほういつ)を離(はな)るれば、則(すなわち)ち常安楽(あんらく)を得(え)ん、一切(すべて)(もろもろ)の苦悩(くのう)は放逸(ほういつ)を根本(もと)と為(な)す、是故(このゆえ)に苦(く)を離(はな)れんと欲(ほっ)すれば、應當(まさ)に放逸(ほういつ)を捨(す)つべし。          (正法念處経)
(い)ねざれば 夜長(よるなが)く、疲倦(ひけん)すれば 道長(みちなが)く、愚(おろ)かなれば 生死(しょうじ)(なが)し。                      (法句経)

(も)し 諍(あらそい)を以(も)って諍(あらそい)を止(とど)めんとすれば至竟(ついに)(とど)むることを得(え)ず、唯(ただ)(にん)(よ)く 諍(あらそい)を止(とど)む、是(この)(ほう)(まこと)に尊貴(そんき)なり。
                        (中阿含経)
浄心(きよきこころ)の水器(みず)には 影(かげ)(あらわ)れざることなし。常(つね)に前(まえ)に現在(あらわ)る。m(ただ) 破器濁心(にごれるこころ)の衆生(しゅじょう)は如来(にょらい)法身(ほっしん)の影像(かげ)を見(み)ず。    (華厳経)

慚愧(ざんぎ)を懐(いだ)く者(もの)は罪(つみ)(すなわ)ち除滅(じょめ)して清浄(しょうじょう)なること本(もと)の如(ごと)し                  (涅槃経)

    慚愧(ざんぎ)= 恥じること。悪口をいう・そしること

牛 水飲めば乳となり、蛇 水を飲め毒となる。智者(ちしゃ) 学べば菩提(ぼだい)を生じ、愚者(ぐしゃ) 学べば生死(しょうじ)を成ず。是(かく)の如く了知(りょうち)せざるは少学(しょうがく)の過(あやまち)ちに由(よ)る。是(こ)の故に多く聞いて厭怠(えんたい)すること勿れ。
                         (華厳経)
   
厭怠=なまけ、あきること
朋友(ほうゆう)に三つの要法(ようほう)あり、失(しつ)あるを見れば即ち相諭(あいさと)し 二つには好事(よきこと)あるを見れば深く随喜(よろこび)を生じ 三つには苦厄(わざわい)在るとも相棄(あいす)てず。
                                (因果経)

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